純粋咖喱批判

哲学的インドカレーの探究

石﨑 楓『京大カレー部 スパイス活動』世界文化社

著者の石﨑楓さんは高校生のときにインドカレーに出会い、インド哲学を勉強するために京都大学に入り、インドにも留学した。4代目の京大カレー部の部長になった。
京大カレー部の地域活動として、故郷の豪雪の富山や和歌山の梅園でカレーを振る舞った。
Curry is Love.
カレー部の悟りのひとつらしい。
カレー部の悟りは7つあって、その一番目が「カレーはいろいろ混ぜれば何とかなる」。
確かにスパイスは混ぜれば混ぜるほど何とかなると思う。
本の最後にタンドール窯をつくる会社の社長へのインタビューがある。
インドではナンを焼くとき泥で固めた窯で焼く。日本に来たインド人は初めてセラミック製の電気タンドール窯に出会うとか。国内シェア60%。一時は90%あったらしい。
その社長も京大カレー部の学生とラス・ビアリ・ボースとA.M.ナイルのことを当たり前のように歴史として語っている。
日本におけるインドカレーの常識ってあるんだ。

ところで、この本には「カレーの核」という章で、「一体いつからがカレーなんだろうか」という問いを考える文章がある。

一体いつからがカレーなんだろうか。パウダースパイスを入れる瞬間か、「カレー」らしく煮つまり始めた瞬間か、はたまたごはんにかけるその瞬間か。
私はためらいなく、タルカこそカレーの源だ、と答える。タルカは、油を熱し、ホールスパイスを加えてはじけさせ、油にスパイスの香りを移す工程である。カレー作りの始まりに行われるか、もしくは最後に加えられる。タルカこそが、ただの「煮込み料理」を「カレー」にすると私は考える。
さらにそこに、にんにく、しょうが、玉ねぎ、トマトといったフレッシュスパイスたちがひとつひとつ完膚なきまでに炒められ、かの「美味しい油」と一体化していく。そうしてできた得も言われぬ赤茶色の塊がマサラといわれる<カレーの核>であり、鍋の底から湧き上がるような旨味となる。
スパイスカレー作りは、タルカから始まり、マサラの段階をもって、既にして立派なカレーとなる。

素晴らしい!
哲学的な文章である。

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